2014年8月号 若き日の蹉跌
2014/11/27
合格発表の掲示板に圭一の番号はなかった。合格して天に向かって拳を突き上げ、努力は報われると叫びたかった。全国に数多ある医学部の95パーセントにほぼ確実に合格できる実力をつけた圭一は愚かにも大学のブランドにこだわっていた。現役時に合格した有名大学には進まなかった。医学部に合格しても、自分に責任ある医師という仕事が務まるだろうかという悩みが高校後半大きくなり、医学部受験を回避した。もう少し自分を見つめる時間が必要だった。浪人してやはり医師として生きていこうと決意が固まり、医学部の中でも超難関を目指して毎日朝から晩まで勉強した。小1から高3まで12年間毎年学年トップになった圭一もこれほど勉強したことはなかった。しかし不合格。本命以外滑り止めを受けなかった圭一は、1年後の受験で雪辱するしか道はなかった。今すぐでも大抵の医学部は合格できるだろう。しかし1年待たないと受験できない。圭一は絶望し、心が折れそうになった。もう今更医学部以外を受験できない。漠然とした将来への不安が圭一を襲っていた。実力があっても本番ではだめなんじゃないかという考えが常に頭をよぎる。時間を持て余すと気が滅入るので、自宅から大阪まで毎日5時に起床し片道2時間以上かけてS予備校に通う日々だった。医学部に進学することを最優先させ、地元のK大学に志望変更していたが、そのころの圭一にもう予備校で学ぶことはあまりなく、ほとんど勉強せずともK大学のA判定を偏差値で7~10程度上回る成績をキープしていた。今年は大丈夫と臨んだセンター試験、満点が当然の数学、理科でも失点し、その他も振るわず、前年を大きく下回ってしまった。16位に沈んだソチオリンピック浅田真央ショートプログラムの演技を見たとき、圭一はこの時のことを思い出していた。「あの時の自分と一緒だ。」受験の神様は圭一にここでもまた試練を与えた。余裕と考えていたK大学も危うくなり、一時は志望校の変更も考えたが、圭一にも意地があった。都落ちはその実力、積み上げてきた努力からしても避けたかった。冷静に考えてみると厳しいには厳しいが、2次試験の英、数、理すべて圭一の実力が発揮できれば逆転は可能だ。しかし問題が易化すれば、受験者全体の得点も上がり、合格に届かないかもしれない。ノーミスを自分に課し、薄氷を踏む思いで試験に挑んだ圭一。「圭一、昨年の屈辱を思い出せ。このままで終わっていいのか。」自分自身を鼓舞した。私立医学部、センターでハンディを抱えた国立医学部2校とも、それまで本番の試験に弱かった圭一とは別人のようにまさにパーフェクトな出来で、試験終了時に合格を確信した。結果はすべて合格。悪戦苦闘した圭一の受験は幕を閉じた。転んでも立ち上がれるんだ。一心不乱に勉強に打ち込んだあの日々は圭一にとってただの回り道ではなく、貴重な青春の1ページだ。